日時計
今年の冬は例年と比べてとても寒かった。いつもの十二月ならば気温は十度前後だというのに今年は五度を超える日が数えるほどもない。まだ雪は降っていないが、降るのも時間の問題だ、とテレビでアナウンサーが言っていたように思う。普段雪があまり降ることのない土地なので雪を楽しみにしていたことを今でも忘れられないでいる。
そんな冬の中でも特別寒い日のことだった。
今になって思い返してみると、俺がなぜ居間に行ったのかが良くわからない。やはり寒さのせいだろうか。俺の部屋は暖房の効きが悪い。だから暖まりに一階の居間に行ってしまったということだろうか。今だから言えることではあるが、それくらい我慢するべきだった。いや、いっそのこと眠ってしまえばよかったのだ。あの時はたしか夜の十二時を回っていたのだから。九時には眠ってしまう弟のように眠ってしまえばよかった。それならば楽しい夢を見ていられたというのに。それならばあんなもの聞かずに済んだというのに。
けたたましい目覚ましの音で目を覚ますと、下の階から母と博也の声が聞こえてくる。昨日見た夢のこと、今日の学校での図工のこと、親友であるしょうたくんのこと、ちょっと気になるわかなちゃんのこと……。いつも通りだった。昨日の夜聞いたことなんて嘘だったかのように。というより、そもそもそんなことはなかったかのように。本当にいつも通りだった。階段を下りていくときに感じる香ばしいトーストの匂い、淹れたてのコーヒーの匂い。いつも通りだった。何もかもいつも通りだった。
テーブルにつくと、朝食のトーストをかじりながら「ねえお兄ちゃん」と博也が何か言ってきたがいつも通り「ああ今度な」と言ってあしらう。博也は話を聞くふりをするだけで喜ぶのであまり相手はしていない。小学二年生なんて相手にしていたらこっちの体力が持たない。
母さんが「テスト近いんでしょ? ちゃんと勉強してるの?」といつも通りのことを聞いてくる。父さんもいるところでそんな話をしたらまたよくわからない説教が始まっちゃうからやめてくれっていつも言ってるのに。俺はその場から出来るだけ早く逃げるためにトーストを一気にほおばった。
しかし、口の中のトーストを流し込むためにぬるくなったコーヒーを飲んでいるときも、食器を急いで片付けているときも父さんが何か言う気配はなかった。いつもだったらすぐに何か言ってくるのに。いつもだったら「ちゃんと勉強しないと」とか「勉強っていうものはな」という風に始まる勉強論を語り始めるのに。いつもだったら母さんと一緒になって俺に色々言ってくるのに。父さんは何も言ってこない。ただ一人だけ白いご飯を食べている。ただそれだけだ。一人だけ何故か違うものを食べている。ただそれだけだ。
高校の授業は来週にあるテストの範囲をなんとか終わらせるために普段より早いペースで行われていた。教師は必死で要点――つまりテストに出るところ――を教え、生徒はその部分だけはしっかりと聞き取っていく。その『生徒』というものには俺も含まれていて、ノートや教科書に聞いたことを書き込んでいく。無駄なことは考えずにひたすら手を動かし続ける。
これが日常だ。テストまで時間がある時とは少し違うけれど、やっぱり日常だ。高校という場所の持つ流れに含まれているのだから。その中には急いで進める授業や、要点だけをメモする生徒だって含まれているのだから。
無駄なことなんてないんだ。
ルーティンを乱すものなんてないんだ。
決められたことをすればいいんだ。
考えなくても良いんだ。
そうすれば何も変わらないんだ。
それが日常なんだ。
「ねえ竜彦」
部屋のベッドに横になっているとドアの向こうから母さんの声がした。
「なに?」
そう言いながら周りを見回すと、久々にやってみたは良いもののつまらなくてすぐにやめてしまったゲームや、目に入ったから読んでみた面白くもないマンガが散乱している。勉強する、と言っているので今部屋を見られるのはあまりよろしくない。今朝は進度を聞いてきただけだったが、この部屋を見られたら説教は確実だ。「あ、今勉強してるから話があるなら後にしてほしいんだけど」なんて言ったとしても母さんは入ってくるだろう。言いたいことがあったら言いたい時にその人の顔を見ながら、というスタンスの人なのだ。
だから俺は驚いた。
「そのままで良いからちょっと話聞いてもらえる?」
なんて、母さんが言うとは思えないことを言ってきたのだ。
そして……
「……博也が竜彦のこと大好きなのは、知ってる?」
と、返答を待たずに母さんは語り始めた。
「あなたはあまり相手してないようだけどあの子はいつもお兄ちゃんお兄ちゃんって言ってるのよ? この間もね、とても嬉しそうに話してたなぁ。『あのね、お兄ちゃんと公園でキャッチボールしたときね』とか『お兄ちゃんとカブト虫取りに行ったときね』とか昔のことをよく覚えてるの。竜彦がまだ中学生だったときにプールに一緒に行ったことがあったでしょ? あの時のこともよく覚えていてね、何回も何回も話したりしてね……。他にも、ゲームやった時のことをすごい覚えてて『お兄ちゃんはすごい強いんだ! 何でもできるんだよ!』ってしょうたくんに自慢してたんだから。……博也はね、中学の頃のあなたと一緒に遊んだことを大切な思い出にしてる……。あなたが高校に入ってから二年……。あの子と遊ばなくなったのには、何か理由があるの? もしとても大きな理由があるなら……私には強く言う資格はないけど、話してほしい。それで、解決してほしい……。出来たらまた博也と遊んであげてほしいの。そうしないと……」
ドアの向こうからはすすり泣くような音が聞こえていた。
どれくらい経っただろうか。あの後、母さんは「勉強の邪魔してごめんね」と言って下に降りていった。
さっきの独白ともとれる言葉で母さんが伝えたかったこと……。
なんで俺は博也と遊ばないのか。
なんで俺は博也の相手をしないのか。
そこに大きな理由はなかった。ただ、いつの間にかそうなっていただけだ。まとわりつかれるのが嫌になったのかもしれないし、どうやって遊ぶかということが変わってしまったからかもしれない。
でも、もしかしたらそれって俺が変わっただけじゃないのか? 博也はあの頃のまま変わらずにいるっていうのに。
だけどあんな無邪気さは罪だ。今の生活をあの頃まま、無邪気なままで過ごしていくなんてことはどうしたってできない。社会が求めているのはそんな人間ではないのだ。
……なら俺はどうしたらいいんだ。
寒い。
時間は夜の十二時を回っている。
だから眠ってしまっても良かった。いや、眠っているべきだったのだ。九時には眠ってしまう弟のように。
階段を下りていくと居間に電気が点いているようで廊下が少し明るくなっている。それを見て俺は居間に向かおうとした。
その時だった。
「もう限界なのよ!」
聞いたことのない母さんの叫び声。
「あなたとはこれ以上一緒に暮らしていけない!」
そんな母さんを父さんがなんとかしてなだめようとしているのだろうか。父さんの「ちょっと落ち着いて」や「冷静になって」という声が聞こえてくるが、母さんが落ち着く様子はない。そして……
「もう無理よ! やっていけない! 離婚して! ねえ離婚してよ!」
何が起きてるんだ?
何で母さんは怒ってるんだ?
『リコン』って何だ?
これは何なんだ?
これは夢だ。
きっと夢だ。
そうだ悪い夢を見ているんだ。
それだけなんだ。
そのうち目が覚めるはずだ。
朝になって布団の中で目が覚めるんだ。
だってこれは夢なんだから。
だってこれはただの悪夢なんだから。
それだけだ。
それだけなんだ。
これは夢だ。
これは夢なんだ。
これは――
今日の朝もいつも通りだった。
目覚ましを止めた。母さんと博也の会話が聞こえた。トーストの匂いを感じた。コーヒーの匂いを感じた。テレビのアナウンサーが今日は冬至であると言っていた。博也が俺に昨日の図工で作った日時計を見せてきた。もっと大きなのが作りたかったと言っていた。首相が新聞の一面を独占していた。母さんが勉強について聞いてきた。朝日が庭を照らしていた。テーブルの上には三人分の朝食が用意されていた。
今日の朝もいつも通りだった。
教科書をかばんに入れた。制服に着替えた。靴を履いて家を出た。自転車に乗った。坂をのぼってそしてくだった。高校が見えてきた。教室に向かった。自分の席に着いた。友達が話しかけてきた。先生が入ってきた。いつも通りだったいつも通りだった。いつも通りだった。
『いつも通り』って何だ?
無駄がないこと? 「じゃあ出席取るぞ」決められたことをするだけ? ルーティンワーク? 「……板山……」変わらないってこと?
そんなものに慣れてしまっていて良いのか? 「……小宮……」これが博也との違いなんじゃないのか? 「……白崎」あの頃との違いなんじゃないのか?
「白崎? 白崎はいないのか?」
おい、と隣の友達が肘でこづいてくる。
「白崎! ぼけっとしてないで返事を……」
「すみません」
と先生の声をさえぎりながら言う。
「どうしてもやらなきゃいけないことがあるんで帰ります」
何を言ってるんだこいつ、とでも言いたそうな顔の先生に背を向けて俺は教室を出る。背後から「おいかばん忘れてるぞ」という先生の的外れな声が聞こえた。
家に帰ると、俺を見て母さんと博也が驚いた顔をした。
「ど、どうしたの?」
母さんの問いに俺は「帰ってきた」とだけ答える。
「そんなことよりどうして博也が家にいんの? 学校は?」
「小学校は今日から冬休みだからなんだけど……」
休みなのか。それなら都合が良かった。時間はすでに九時を回っていたが、まだ何とかなるだろう。
「博也、昨日日時計作ったんだって?」
「うんそうだよ。ほんとはもっと大きいのつくりたかったんだけどね。先生が……」
「なら作るか」
え? と驚いた表情をする博也。
「もっとでかい日時計作りたいんだろ? なら一緒に作んないか?」
作ると決めたらすぐに行動しないといけない。時間は限られているんだから。
まずは長いひもと棒を探さなければならない。日時計を作るにはコンパスを使って円をかく必要があるのだ。だから大きな日時計を作るには大きなコンパスが必要だった。
物置を探すと昔遊んだおもちゃやがらくたがたくさん出てきた。その中から黄色と黒のしましまのロープと何に使ったんだかわからない二メートルほどもある鉄のパイプを見つけたので、俺はパイプを、博也はロープを庭に運んだ。
これで準備はできた。ロープとパイプを使えば庭に円を描くことができる。そう、俺はこの庭を大きな日時計にしてやるつもりだった。
まず、円の中心となる場所を決め、そこにパイプを立てる。そこから円のサイズを決め、ロープを張ったら、そのロープを持ちながらパイプの周りを回る。それと同時につま先で地面に線を描いていけば円の完成だ。庭の土に足で線を描くだけなら二年生の博也にもできるので、俺がパイプを支える役であいつが周りを回る役だ。
円を描き終えたら後は、一時間ごとに中心に立てたパイプの影が円と交わる場所に印をつけていくだけだ。博也が大きい石をいくつも見つけて来たのでそれを円の上に印として乗せていく。始めたのが少し遅れてしまったこともあって最初の方は印がつけられず、十時が最初の印になってしまうけどまあ良いだろう。そこから始めれば良いだけだ。
「なあ博也」
時間ができて少し暇なので、物置から出てきた古いおもちゃを使って庭で遊んでいる博也に部屋の中から声をかける。
「ん、なに?」
「いや、なんでもない」
「お兄ちゃんへんなのー」
そう言ってまた遊び始める弟をこうやって見ているのも悪くないんじゃないかな、そう思えた。
冬至ということもあって日が沈むのは早く、印をつけることができたのは午後四時までだった。
「お兄ちゃん、これで完成だね!」
庭にはまっすぐに立つ鉄パイプとそれを中心にした大きな円、そしてその円の上に乗せられた七個の大きな石によって日時計ができていた。
「いや、まだだ」
「え、なんで? 印は全部つけたじゃん」
「これは時計なんだからちゃんと時間があってるか確かめなきゃいけないだろ?」
「あ、そっか! 間違ってたら直さなきゃだめだもんね!」
「そういうこと。だから明日はそれを確かめるぞ」
笑顔でうん! とうなずく博也。俺はこうやって接することを忘れていた。こんなに嬉しそうな顔をする弟のことを忘れていた。これからは忘れないでいよう。絶対に……。
翌日はセットしていた目覚ましがなるよりも早く目が覚めた。
完成間近の日時計が気になって目が覚めてしまった、というわけではない。寒かったのだ。いつもよりも更に寒かった。何か窓の外ですごい音がしていたのでカーテンを開けると、そとは真っ白だった。雪が積もっていたわけではない。いや、確かに積もってはいるのだろうがそれだけではなかった。吹雪いていたのだ。それも凄まじい勢いで。
「雪だね……」
「ああ」
「つまんないね……」
「ああ」
もちろん今日やろうとしていたことはできない。パイプはしまっておいたから、どこかに行ってしまうなんてことはない。石は結構重いし、下半分くらいは土に埋めてあるから大丈夫だと思う。だから日時計がダメになってしまうということはないだろう。だけど、雪が積もってしまってはどうしようもないし、吹雪だからという以前に日が出ていけなければ日時計は意味がないのだ。
俺も博也も気落ちしてしまいその日はとくに何もすることなく終わってしまった。
その日が最後だったことも知らずに。
吹雪の日の翌日、その日にすると母さんは決めていたらしい。朝起きた時にはすでに母さんは荷物をまとめていた。
別居するのだそうだ。別居とは言っても離婚届をまだ出していないだけで実際は離婚と何も変わらない。この突然のことに驚きはしたけど、この間のように取りみだすことはなかった。両親が離婚したことの不安よりも自分のすべきことを成し遂げられなかった後悔が上回っていたのだ。どうしても日時計を完成させたかった。自分では動かすことのできないその期限までに、俺にできることはそれだったのだ。
しかしそんなことには構わず母さんは博也の手を引っ張って出ていってしまった。
「ごめんね」
そう呟いて出ていった母さんと何度も振り返る博也の後ろ姿を見送る間、まだ完成していない日時計が頭から離れることはなかった。
それから春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来た。
その間に俺の生活は変わった。
俺が本当にしたいことがなんなのか。それを考え直してみると今の高校に通っている必要はないという結論に達した。だから高校を辞め、その代わりに高等専修学校に通っている。高校三年になろうとしていた時期のことだったので担任は卒業してから専門学校に進めば良いと言ってきたがそれでは意味がないのだ。現状を自分の手で変える必要があるのだから。
そんな生活に再び変化が訪れたのは十二月のことだった。
博也との再会の話が出たのだ。
母の実家に連れていかれた博也は俺に会いたい、日時計がまだできてない、と言って何度も泣いているのだという。一年近くたった今でも泣くことがしばしばあるらしく、それをなんとかするために俺に会わせるということになったそうだ。
日にちについては博也を会わせる必要があるので俺が決めて良いとのこと。それならば、と思いついたことを実行するために俺はある日を指定させてもらった。
俺が指定したのは十二月二十一日。
一年で最も日が短くなる日だ。
母さんに連れられて博也が家に来たのはその日の朝のことだった。母さんは「日が暮れるころにまた来ます」と言ってどこかに行ってしまった。
「よし、じゃあ行くか!」
俺は博也の手を握っていた。
「石もちゃんとある!」
向かった先はもちろん庭だ。
今朝は早く起きて庭にパイプをさしたり、石の上に積もってしまっていた土を払ったりしていたのだった。
ほとんどが一年前のままだった。変わったことと言えば近くに建物ができたせいで庭に日光が入りにくくなったことくらいだけど、それも十時前までのことだから関係ない。
「知ってるか? 日光って言うのは日によって角度が違うんだ」
「へえ、そうなんだ」
「だから日によって出来る影の向きが違うんだ」
「え、じゃあこの日時計作り直さなきゃ使えないの?」
せっかく完成させられると思って来たのに、と言うように博也はあからさまにがっかりしている。
時計を見ると針がもうすぐ十時を指そうとしていた。そろそろ説明をしておかないとな。
「今日が冬至って日だって知ってるか? 冬至って言うのはな、一年で一番日が短い日のことなんだ。じゃあ去年、日時計を作った日は覚えてる? あの日も冬至だったんだよ。今日も去年も、どっちも冬至。この日には太陽の位置が全く同じになって影のずれは一周して元通りになるんだ」
日光がだんだんと庭を照らし始めた。徐々に明るくなっていく。すべてはこれからだ。
円の中心に立てたパイプに日光が当たり影ができる。その影は庭の中に落ち、ゆっくりと動き始めた。動き始めた影が向かうのは一つ目の石だ。
「やっと動き始めた……」
家の時計が十時ちょうどの鐘を鳴らす。
それと同時に影が一つ目の石と重なった。