自殺依頼

 カンカンと音をたて、ゆっくりと階段を上っていく男。目的の場所まではあと少しという所にいる。
 男の名前は北川匠。十四歳になったばかりの彼が目指しているのはビルの屋上だった。
 この日のために匠は四ヶ月をかけて良い景色の場所を探していた。やはり死に場所くらいは自分で選んでおきたかったのだ。
 そう、今日彼はこのビルに自殺をしに来ていた。
 あと数段の階段。ここを上りきれば誰もいない屋上がある。そこから見る景色は格別で死に場所としては最高だ。全ての悩みから開放されて、一人で違う世界に行ける。
 はずだった。しかし上りきって屋上を見渡すと、一人の女が立って、広がる景色を独り占めしていた。先客がいたのだ。
「もしかして貴方も自殺しに来たの?」
 話し掛けてきた女は、ここに来るのは自殺志願者だと決め付けているかのようだった。
「いえ、僕は」
「嘘つかなくても良いよ。ここで死んだ人は多いからね。下の花束の数見た?」
 そう言われて匠が来る途中に見た景色を思い出していると、答えを待たずに女は再び口を開いた。
「じゃあ私はそろそろ逝くね」
「え、ちょっと……」
 匠がまごつくが女は気にせず「また会った時はよろしく」と言って、屋上の縁に向かって歩いていく。自分が死のうと思っていた場所で人が死のうとしている。匠はそれを見ながら女の姿に自分を重ねていた。
 死ぬ――
 本当に人が死ぬ。自分が飛ぼうとしていた場所から人が飛ぼうとしている。それはまるで未来の自分を見ているかのような光景だった。
「ねぇ」
「え?」
 突然声を掛けられて驚いている女。
「死ぬってどういうことなのかな」
 匠の持っていたただ1つの疑問。そして
 ――恐怖。
 それを今、死のうとしている女に投げかけた。
「わからないよ」
 笑いながら答える。
「でも……死んでみればわかるでしょ」
 そう言って女は屋上の縁を強く蹴った。浮いた身体は重力などないかのように空中へ飛び出していった。そしてゆっくりと空へと引き込まれていく。このまま飛んでいきそう、いや、すでに飛んでいるようだった。
 しかし当たり前のように重力はある。女が空を飛んでいたのは一瞬だけだった。空へ引き込まれようとしていた女は、次の瞬間には重力に負け、姿を消した。

 ビルの階段を下りながら匠はポケットに手を入れた。その中にあるのはもちろん遺書だ。ルーズリーフに書いてあるそれを少しの間眺めると、匠は破り捨てた。
 もうそれは必要ないから。

 家に帰ると、母の声と父の声、それに加えてどこかで聞いた事のある声が聞こえてきた。『聞いた事のある声』の主が気になり、匠は声のする方へ歩いて行った。
「では、報酬は十万円でよろしいですね?」
「はい。それで息子が自殺する事を止めてくれるのなら安いくらいですよ」
 自殺したいなどと言う事は常に親に言ってきていたのだが、それに関係する報酬がなんなのかわからない。
 それにこの聞き覚えのある声。扉をはさんでいるので誰だかわからないが、今扉を開けない理由がない。
「あ、久しぶり」
 そこにいたのは自殺したはずの女だった。

 後でわかった事だが、女の名前は荒井奈菜。職業は自殺屋。自殺をするふりで、死ぬという『恐怖』を与え自殺をやめさせる仕事らしい。

 あれから数年たつ今も、匠は生きている。
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