やさしい毒
気がついたときには『ぼく』は電車に乗っていた。都会を走る何両も連なった電車じゃなくて、二両だけの短い電車。そんな電車が走るのは、やっぱり都会なんかじゃなくて一面の畑と遠くに山が見えるだけの場所。でもそんな景色も今はいつもと違う。まっ白なのだ。畑も山もすべてが雪におおわれている。銀世界と呼ぶのがふさわしい景色だ。
そんな景色の中をゆっくり走る電車に乗っている『ぼく』だけど、いつのまにこの電車に乗ったのかはわかっていない。もしかしたら今まで疑問に思わなかっただけで、ずっと乗っていたのかもしれない。そう考えるなら、生まれた時からずっと乗っていた、という可能性もあるだろう。なんにせよ、『ぼく』はいつどこでどうやってこの電車に乗ったのかわかっていなかった。
そんなことは意に介さないかのように電車は揺れながら銀世界を進む。
両親のいない家で少年は一人椅子に座っていた。まだ十歳で小学生の彼は、遊びにも行かずテレビも見ず、ただただ両親が帰ってこないことを願っていた。そんな彼を、おかしい、だとか、子供らしくない、と思うだろうか。そう思う場合、想定しているのは子供を愛する両親と無邪気に遊ぶ子供の構図だろう。だが、彼の両親はそのような構図には当てはまらない。彼の両親は子供を育てられるような大人ではないのだ。具体的にいうと、母親は若い男を家に連れて来るし、父親は会社に行くふりをして夜まで外で時間をつぶす。一般的な親としての自覚を持たない大人なのだ。そしてそのことは彼もよく知っていた。だから彼はそんな両親に帰ってきてほしくなかった。親のまねごとをするのに自分を巻き込んでほしくなかったのだ。
「ひろちゃん、ちょっといいかい」
静寂を破る声が二階から聞こえてくる。その声に呼ばれた彼は、ふう、とため息をついて二階へと向かった。
電車が止まったのは本当に突然だった。アナウンスが全くなく、その時は止まった理由がわからなかった。しかしすぐに『ぼく』はその理由に気付く。いつの間にか電車の窓の真下まで雪が積もっていたのだ。これでは電車は動けない。だけど、いつの間にこんなに積もったのだろう。
「ふざけんなよ!」
それほど遠くない席に座っている『ぼく』の父親くらいの歳の男。その男の怒鳴り声が電車内に響いた。どうやら電車が止まったことに腹を立てているようだ。
そんな男を見ながら、ふう、とため息をついたのが『ぼく』の失敗だったと言って間違いないだろう。そのため息が自分に向けられたと思った男は大きな足音を立てながらこちらへ向かってくる。
「俺のこと馬鹿にしてんのか!」
あまりの大声に耳が痛くなる。
「ガキのくせにふざけやがって!」
「なんだ今のため息は!」
「調子に乗ってんじゃねえ!」
「大人に喧嘩売ってただで済むと思ってんのか!」
八つ当たりと言えるようなそれを『ぼく』はただ耐えるしかなかった。
そんな時だった。
「いいかげんにしなさいよ! その子がかわいそうじゃない」
突然の声。辺りを見わたしても『ぼく』と怒っている男以外の人がいるようには見えない。
「ウサギは黙ってろ!」
「黙ってろはこっちのセリフよ! その子がかわいそうだと思わないの? 大の大人が小学生くらいの子を虐めて楽しいの?」
痛いところをつかれたのか、男は苦虫を噛み潰したような顔をしながら近くの席に腰を下ろした。まだ納得がいかないようで、ぶつぶつと何かをつぶやく声が聞こえる。
「君、大丈夫? あんなやつの言うことなんて気にしなくて良いのよ?」
『ぼく』にかけられる優しい言葉。しかし『ぼく』はすぐに答えることが出来ないでいた。何が起きているのか理解できなかったのだ。
だってウサギがしゃべるなんて聞いたことないだろう?
でも声の主は確かにウサギで、そのウサギは電車の外にいて、優しい言葉を『ぼく』に投げかけている。
「どうかしたのかしら」
「あ、いえ、どうもありがとうございます」
頭を深く下げながら『ぼく』はもう一度窓の外を見た。しかし何度見てもそこにいるのはウサギだった。
「私、君みたいな礼儀正しい子、好きよ」
まっ白の体に映える綺麗な赤い目が『ぼく』を見つめていた。
二階に上がると、彼は目の前の部屋へと入っていった。
「来たよ、おばあちゃん」
「ありがとうねえ。ちょっとお手洗いに行きたいんだけど、杖がどっか行っちゃったみたいなのよ。ひろちゃんちょっと肩を貸してもらえないかい?」
「いいよ」
そう言って彼はベッドに座っている祖母に近寄る。そして背を向けつかまりやすいように肩を祖母の前へ出す。その肩に祖母が手をかけた。
「よいしょ」
そうして二人はゆっくりとトイレへ向かった。
しかし彼は知っている。本当は祖母が普通に歩けるということを。もちろん杖なんて元々持っていないことも。こうやって嘘をついてまで自分を呼ぶのは寂しいからだということも。全部知っている。その上で彼は知らないふりをしている。面倒だとは思うけれど、両親よりも自分のことを思ってくれているのが伝わっているから。こうなる前は自分を大事に育ててくれた人だから。
用を終えた祖母を部屋まで連れていき、ベッドに座らせる。
「ありがとうね、ひろちゃん」
そう言って祖母はコインの形をしたチョコレートを彼に渡す。彼は「ありがとう」と言って受け取ったチョコレートをポケットにつっこむ。
これが祖母の思いの伝え方。
これが彼の思いの受け取り方。
これがこの二人の関係だった。
「ウサギさんはあの男の人のこと知ってるんですか?」
「あの男? なんか前もああやって怒ってたのよね。何か落とし物をしたみたいなんだけど見つからないとか。そんなことよりウサギちゃんって呼んでってさっきから言ってるのにどうして呼んでくれないの?」
あの後『ぼく』はウサギさんに色々な質問をしたのだけど、はぐらかされることの方が多くてあんまり進展はなかった。答えてくれたのはウサギさんについてとあの男についてだけ。この電車のことや、この雪のことについては何も答えてくれなかった。
ウサギさんのことについてはすごい長々と話してくれた。その話が長すぎたので、好きな食べ物はサクランボ、嫌いな食べ物は甘いお菓子、と言うことしか覚えてないけれど。
「ねぇ、そんなことどうでも良いから窓開けてこっちに来ない? その中にいるより絶対楽しいわよ?」
そう言って『ぼく』を誘い出そうとするウサギさん。『ぼく』とウサギさんは窓を挟んで会話をしている。それなのに声は間に何もないかのように綺麗に聞こえる。なんでだろう。
「もし楽しめなかったら私が楽しませてあげるわ。ねえ、私と一緒に来ない?」
『ぼく』はウサギさんと一緒に雪の中を歩いて行く様子を想像した。なんだかおとぎ話の世界に迷い込んだようで面白そうだ。ちょっと行ってみようかと思い、窓に手を伸ばした時だった。
「おいやめろ!」
男が怒鳴って『ぼく』を引きとめる。
「そんなウサギの言葉にだまされるんじゃねえ! お前が窓を開けたらこっちまで迷惑すんだ! ふざけたことしてんじゃねえよ!」
突然のことに茫然とする『ぼく』。
「お前はそのウサギがなんなのか分かってねえからそんなのんきでいられるんだ! どう考えたってウサギがしゃべるなんておかしいだろ! そのクソウサギはな……」
「ちょっといい加減にしなさいよ! だいたいあんただって私のことどうこう言えるような人間じゃないでしょ!」
「黙ってろクソウサギ! お前なんかには言われたくねえんだよ!」
「二人ともやめてください!」
喧嘩を始めようとする二人を『ぼく』が止める。
「窓を開けて外に行くかどうかは自分で決めます。だから少し考える時間を下さい」
彼の両親は彼に興味を持っていなかった。
彼が生まれたばかりの頃は義務感からか最低限の世話をしていたが、彼が一歳を迎えるころには全てを投げ出していた。
そのような環境にもかかわらず彼がいままで生きてこられたのは祖母のおかげだと言って間違いないだろう。彼を心配した祖母は、彼の両親を自分の家に住まわせたのだ。彼を助けたい祖母と家賃を払わなくて済むという条件に惹かれた両親。祖母による交渉はあっという間に成功したのだという。それによって祖母が彼の世話をすることができるようになったのだ。祖母がこのようにしていなければ彼は今頃死んでいるか、生きていたとしても施設に預けられていただろう。
このようにして彼は祖母の手で育てられることとなったのだ。普通は両親がすることを全て祖母が行う生活。彼が小学生になってからは友達に馬鹿にされ、涙を流すこともあったけれど、幸せな生活だった。
それがどうして今のようになってしまったのか。
それは両親の言葉のせいだと彼は思っている。あんな言葉を言う資格なんてないのに。むしろ自分たちの方が言われて当然の立場なのに。
「あの子の親のようにふるまうのはやめて」
気まぐれに子育てごっこを再開しようとした両親。
その言葉のせいで祖母はあのような状態になってしまったのだ……。
ウサギさんについて行くか。
それともあの男の言葉に従うか。
ウサギさんについて行くとあの男に迷惑がかかるらしい。でもどんな迷惑がかかるのか全く分からない。窓から吹き込む風が寒いのだろうか。だったら出てすぐに閉めれば良いのかもしれない。でももしかしたら他にも何かが……。
『ぼく』はどうするか迷っていた。ウサギさんについて行くのは面白そうだけど、あの男に怒られるようなことは出来るだけしたくなかった。自分で決めると言ったけど自分では決められそうもない。どちらかを選ぶきっかけがほしい。そう思った時だった。
「どうせこの電車は動けないんだし、ここで降りても良いじゃない。せっかくだし楽しみましょうよ」
口を開いたのはウサギさんだった。
激怒する男の人に頭を下げ、『ぼく』は窓の外に出た。一面雪でまっ白なのに不思議と寒くない。『ぼく』がそう言うと、
「まあここは夢の世界だもの。甘い夢の世界に寒さなんて邪魔なだけでしょ?」
と言ってウサギさんは笑った。
どこまで進んでもまっ白な世界でウサギさんはとても楽しそうに飛び跳ねている。空を見ると綺麗な月が浮いていて、ウサギさんに似合うな、と『ぼく』は思った。
「本当はね」
そうウサギさんが切りだしたのは電車からだいぶ歩いてきた頃だった。
「私はウサギじゃないの」
『ぼく』がきょとんとしていたからだろう。ウサギさんは笑う。
「空に月がのぼっているでしょ? あの月の光は呪いなの。だから月がのぼっているときはウサギになってしまう……」
ウサギさんは空を見上げた。
「この世界は夢のように綺麗で夢のように甘い。まるでニセモノみたい。だからここに住む私も姿を変えなきゃいけないの。それが呪い。外から来た君にはわからないでしょうけどね」
白い雪の上に足跡を残しながらウサギさんが『ぼく』の前を歩く。
「つまんない話はここまでにしましょ! 君も退屈してるだろうし。ここからは私が楽しませてあげるわ。だから君も私を楽しませてね」
振り返ったウサギさんの赤い目が『ぼく』を見つめている。
「どうしたら、いいんですか?」
「どうもしなくていいのよ」
白い体が雪を思い切り蹴ってこちらへと跳んでくる。『ぼく』は思わずウサギさんを抱きとめていた。
「君がいればいいの」
ウサギさんがつぶやくと同時に突然足元の雪が水のようになり、『ぼく』は白い水の中に落ちてしまう。
「一緒に溺れてしまいましょ」
その後のことを『ぼく』は覚えていない。
ウサギさんについて行くか。
それともあの男の言葉に従うか。
ウサギさんについて行くとあの男に迷惑がかかるらしい。でもどんな迷惑がかかるのか全く分からない。窓から吹き込む風が寒いのだろうか。だったら出てすぐに閉めれば良いのかもしれない。でももしかしたら他にも何かが……。
『ぼく』はどうするか迷っていた。ウサギさんについて行くのは面白そうだけど、あの男に怒られるようなことは出来るだけしたくなかった。自分で決めると言ったけど自分では決められそうもない。どちらかを選ぶきっかけがほしい。そう思った時だった。
「いい加減にしろ! 外に出たら戻れないってことがわかんねえのか!」
口を開いたのはあの男だった。
寂しそうに見つめるウサギさんに謝り、『ぼく』は窓についていたカーテンをおろした。これでウサギさんの姿はもう見えない。姿が見えなくなると、さっきまで普通に話せていたのが嘘のように声が届かなくなった気がした。
「外に出たら戻れないってどういうことなんですか?」
怖いながらも『ぼく』はさっき疑問に思ったことを、隣に座っている男の人に尋ねた。
「あのウサギは怪物みたいなもんだ。アイツについて行ったが最後、生きては帰れねえ」
男の人は外の景色を見ながら続ける。
「さっき窓を開けていたら俺も道連れにされていたかもしれねえ。そんなのはごめんだ」
そんな危ないことをしようとしていたなんて……。
「止めてくれてありがとうございました」
「んなことは良いんだ。それよりお前、夢を見かけなかったか?」
突然男の人が話題を変えた。その顔はいたって真面目で、ふざけているようには見えない。
「夢、ですか?」
「ああ、夢だよ夢。情けえねえ話なんだがどっかに落としちまってな。お前みてえなガキの手も借りたいってわけよ。まあ見かけてないなら別に良いんだけどな」
夢を落とす。この言葉に『ぼく』はあることを思い出していた。ウサギは確かこの男の人が何か落とし物をして探していると言っていた。つまり、この男の人は落とした夢を探して電車に乗っているんだ。
「夢って目に見えるんですか?」
少しでもウサギから助けてくれた男の人の役に立ちたい。『ぼく』はそう思っていた。
「見える。当然だろ」
そう言ってから男の人は思い出したかのように言う。
「ああ、そうか。むこうの世界から来たお前には見えねえのか。そりゃもったいねえ」
「もったいない?」
「本当にもったいねえよ。そんな良い夢持ってんのに自分じゃ見られねえなんてな。腹が立ってくるわ。こっちは夢を失くしちまったっていうのによ。少しでも良いから分けてもらいたいくらいだ」
クソッと男の人がつぶやくのが聞こえた。
「あの」
『ぼく』が口を開いてしまったのはほとんど反射のようなものだった。もしかしたらそれ以外の力が働いていたのかもしれないけれど。
「夢って分けられるんですか?」
「あ?」
「もし分けられるなら……」
「分けられるわけねえだろ! 全部やっちまうか全部やらねえかのどっちかしかねえんだよ!」
「それなら!」
男の人の声に負けないように『ぼく』も怒鳴るような声で言う。
「さっき助けてくれたお返しに全部あげます! 自分じゃ持ってるか持ってないか分からないものを持ってても仕方ないし! 全部あげます!」
その瞬間、男がにやりと笑った。そしてその口が大きく広がり、『ぼく』を飲み込む。
「自分の持ってる物に気付かないなんてバカなガキだな」
その後のことを『ぼく』は覚えていない。
ウサギさんについて行くか。
それともあの男の言葉に従うか。
そんなどこかで見た場面。
どちらを選んでも同じように終わってしまう。
「ここは夢の世界」
どこからともなく聞こえてきたその声は、ウサギのものでも男のものでも『ぼく』のものでもなかった。
「甘い甘い夢の世界。でもそれはニセモノの甘さ。ニセモノにとっての甘さ。だからあなたには甘くないの。あなたにとっての甘さはホンモノの甘さ。思い出してごらん。あの味を」
『ぼく』以外の時間が止まってしまったのか、ウサギも男も固まってしまっている。
「ニセモノたちはホンモノが嫌いなの。だってホンモノには負けてしまうから。ニセモノの甘さじゃホンモノの甘さには勝てないの。ニセモノにとってホンモノの甘さは毒のようなものなのよ」
『ぼく』だけの時間の中で、声は休むことなく囁き続ける。
「さあ思い出して、ホンモノの甘さを。あなたがこの世界に唯一持ってくることが出来たものを」
『ぼく』はポケットに何かが入っているのを感じた。手を入れると丸い形をしたものにぶつかる。これがさっきの声が言っていたもの、この世界にとっての毒なのか。
『ぼく』はそれを宙に放り投げた。
ぼくは電車に乗っていた。最近はこのあたりも畑を見かけなくなった。単線だった路線も複線になっているし、二両の電車なんてものはもう走っていない。都市計画と呼べるほどしっかりはしてなさそうだけど、一年来ないだけで線路沿いの町は姿を変えている。
大学を卒業してからそれまでよりも来る機会が減ってしまったけれど、一年に一回は必ず来るようにしている。
ぼくの目的地はこの先の駅にあるお墓だ。
両親が死んだのはぼくが十歳の頃だ。両親とはいっても、普通の親のように世話をしてくれたわけじゃないのであまり思い入れはない。ただ血がつながっているだけという感覚。十歳のあの日。家に電話をしてきた警官から両親が死んだ、しかも両親が同時刻に別の場所で死んだと聞かされたときはさすがに動揺したけれど、だからといって涙を流すようなことはなかった。知っている人が死んだ。ただそれだけだ。
当然のことだけど、そんな両親の墓参りに行くわけじゃあない。ぼくが向かうのは、両親に世話を放棄されたぼくを愛情こめて育ててくれたおばあちゃんのお墓だ。
墓石を磨き、花を供え、水をかけて、線香を立てる。そして手を合わせる。こうして墓前で手を合わせていると、ついぼくはお礼を言いたくなってしまう。育ててくれたことだけではなく、また別のお礼を。それが何のお礼なのか、ぼくにはわからない。でも心の奥の方から自然に出てくるのだ。育ててくれたことじゃなければ、なにかをもらったことについてだろうか。それとも……。
そんなことを考えながらおばあちゃんのお墓を後にする。
ぼくはポケットからコインの形をしたチョコレートを取り出した。それを口へと放りこむと、やさしい甘さが口の中に広がっていった。